カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

2018.8 掌編小説「青は藍より藍より青」第一回阿波しらさぎ文学賞を受賞しました。

2017.6 文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

読書のことを「インプット」とかいっちゃう連中は眼から血が出るまで読み返せ──乗代雄介『生き方の問題』(群像2018年6月号)

※このエントリーには乗代雄介『生き方の問題』のネタバレが含まれています

 一つ口惜しいのは、貴方が覚えていて僕が覚えていなかったことを、今は書くわけにはいかないということだ。それらは一年前に貴方が僕に話してくれた出来事として、左に無限に続く余白──もうそこは文字で埋まっているんだろう──に書かれなければ、僕にとって嘘になる。僕は今この余白を埋めるごとに、貴方に近づくような遠ざかるようなもどかしい心持ちでいるけど、この宙吊りがまた僕に絶望的な歓びをもたらすみたいだ。僕の書きつつの切迫が、そっくりそのまま貴方の読みつつの切迫になることを夢想しながら僕は書いている。貴方がそのように読むことをほとんど祈るように期待して。

乗代雄介『生き方の問題』(群像2018年6月号 p120)

 

 ぼくがいつまで生きるかはわからないし知りたくもないのだが、歳をとるたびにやはりというか、物忘れが多くなったような実感がある。ときにどうでもいいことを、ときに大事なことを忘れてしまうのだけれど、それはこれまでに記憶してきたあれこれが蓄積されてしまったせいなのか? 残りの人生で、というにはまだまだ早すぎる(と、いま信じたい)が、記憶が蓄積されるから覚えるのがむずかしくなるのか、はたまた単純に過去のあれこれにかかわらず純粋な記憶能力が低下してきたのか──記憶について考えるたびに思い起こされるのは、脳みそに刷り込まれ、あるいはこれから刷り込もうとする情報の群れを、自覚的に制御しかねるということだ。
 むしろ問題はこうだろうか。すなわち、物事の「記憶」と「忘却」はどちらがむずかしいのか。ここでこうしたマトリクスを考えることができるだろう。横軸に記憶と忘却をとり、縦軸に意識的と無意識的をとる。するとここに以下の4つが現れてくる。

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  • 意識的に記憶する(している)
  • 意識的に忘れる(している)
  • 無意識的に記憶する(している)
  • 無意識的に忘れる(している)

 こうして整理した段階で今一度考え直してみると、歳をとるたびに「無意識的に忘れる」ことが多くなり、同時に「無意識的に記憶している」ということが多くなったという実感がある。しかし考えてみれば「意識的に記憶する」ことはほとんど仕事に関わることであり、学校を出て勉学から離れるとその量はものすごく少なくなった。そして「意識的に忘れる」というのは能力的に不可能で、これまでに一度もやったことがない。こうも「無意識」の存在が大きく感じられるようになったのは、10代や20代で人生で起こるほとんどのパターンの出来事がすでに生じてしまったからで、30代以降に起こる出来事の大半はその反復にすぎないからだ、という説を聞いたことがある。これは情報工学的な知見によるもので、反復される類似の出来事は抽象化されたひとつのパターンとして認識されるという意味なのだが、もしそうであれば、ぼくらは長く生きれば生きるほどに人生における「特別」を無意識的に捨ててしまうように設計されてしまっているという風にも捉えるかねない。だからというのか、歳をとるたびに時間は加速する。

 それに抗う行為のひとつが「書く」行為であり、「読む」という行為だ。抽象化された記憶に特定の固有名詞を接続させることで、事象は具体化し、特別を獲得して復元される。しかしそこには大なり小なりの改ざんが含まれ、精密に、そして正しく描写するほどに「過去」に似たものになるけれど、それはどこまでいっても「似た」ものでしかない。この差異が顕在化がぼくらに時間の物質的な手触りをかんじさせる。乗代雄介『生き方の問題』は、この手触りをめぐる小説だ。そしてこの手触りをたよりに、ぼくらは記憶と忘却の無意識の深部へと入っていくことができる。

 時間を超えてある1日を同時に生きなおす

 本作『生き方の問題』の筋書きじたいに複雑なものはなにもない。少年時代から性的な憧れを抱いていた従姉である「貴方」と「僕」は「おばあちゃんの家」がある足利市で会うことになり、そこで行為に及ぼうとするが挿入にはいたらず、後から「貴方」によって「妊娠して結婚しようと思っていた」という思惑を知らされる。「僕」はかねてから性的対象として「貴方」を見ていたのだが、その日の夜になって性欲を取り払った「貴方」への恋心を自覚する。すると祖母がすべてを見透かしていたかのように、お前と貴子(貴方)が一緒になればいいという。細かく読んでいくと、どうやら祖母が貴方に僕に接近するように促したと思しき叙述も散見される。

 ただ、この小説の独特さは叙述形式にある。
 この小説の全文は、情事があった一年後に「僕」が「貴方」に対して送った手紙として記述されている。そして十代の頃のエピソードや1年前の2017年7月10日の出来事の記述の合間に「現在進行形でこの文章を書いている僕の心情」「2018年7月7日にこの手紙を受け取り、読み進めているだろう貴方への語りかけ」が挿入されている。
 こうした構造によって「書く僕」と「読む貴方」という二項が小説の基盤となり、それゆえにすべてのエピソードが「書く僕」と「読む貴方」というそれぞれの時間からの差異として認識され、「僕によって書かれた過去の僕や貴方」の時間は奇妙にずれ続ける。記憶と忘却が体内をめぐる運動が、書く/読むという行為にすり替わる。

 もちろん、このズレは「手紙という無視しがたい大きなタイムラグを内在する媒体」の特質や、この手紙じたいが「じゅうぶんな時間を使って書かれたもの」という性質によりいっそう強調されていて、この点が特に本作を傑作にしている要素だ。この手紙を書く「僕」が想定している読者は現在進行形でこの手紙を読んでいる「貴方」であり、それはすなわち「ことばを重ねるほどに過去になってゆく現在の僕」「永遠に未来であり続け、かつ永遠に存在しないかもしれない貴方」と同じ時間を過ごそうとする試みに等しい。2017年7月10日のことを意識的に忘れないことを望んで書かれたこの文章は、時間を超えて「書く」と「読む」という現象の合流点になる。同じ記憶を有したふたりがこの合流点に達することで、「書く」と「読む」が区別不能の現象になり、「僕」と「貴方」はどんな時間にいたって2017年7月10日を同時に生きなおすことができるのだ。

時間の超越と読書

 乗代雄介はデビュー以来、特に「文章を読む」ということについて大きな問題意識を持って作品を発表してきた作家だ。あるいは「書く」という行為と「読む」という行為を等価なものとして扱おうとしているといえるかもしれない。デビュー作の『十七八より』にしろ『本物の読書家』にしろ、多数の文学作品の固有名詞により「読書経験」構築し、それを前提としつつユーモアに満ちた文体や構造を獲得する手腕は見事だ。

 世間の読書好きのひとたちはテレビとかネットとかあらゆるところで、

「読書の魅力は、過去のひととの対話ができることだ」

 というようなことをよくいっている印象がある。このことばの意味するところはよくわかるし、頷けもするのだけれども、好きか嫌いかでいえば嫌いだ。なんとなく、このことばは「読書好きなひとが読書を崇拝するために生み出したメタファー」のようにかんじられる胡散臭い文学臭がするし、「対話」ということば自体も究極的にはメタファー以外の何者でもない。乗代雄介のすばらしさは、この感覚をメタファーとしてでなく、現実に起こる現象として扱ったということに尽きる。これが作品として結実したのが今回取り上げた『生き方の問題』だ。

 書き手と読み手がテクスト上で出会い、対話するということは「本から学びを得る」ということではない。読書に「対話」ということばがあてがわれたとき、いつも「インプット」や「知識」や「知恵」や「学び」ばかりが言及されてきた。

 でもはっきりいう。

 読書によって行われる書き手と読み手の対話とは、文字通りの意味に他ならない。 

 それがわからないひとは、わかるようになるまで乗代雄介を何度も何度も読み返して欲しい。読書それじたいがいかに感動的な現象であるかをこの小説は示している。