カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

2018.10 昨年刊行した電子書籍短篇集『コロニアルタイム(惑星と口笛ブックス)』第39回日本SF大賞にご推薦いただきました。

2018.10 短編小説『誘い笑い』を文学ムック『たべるのがおそいvol.6(書肆侃侃房)』に寄稿しました。

2018.8 掌編小説「青は藍より藍より青」第1回阿波しらさぎ文学賞を受賞しました。

なぜ文芸メディアじゃないWEBメディアで「文学」をするのか?──多数派じゃないと生きられないわたしたち

 地震のすこしまえに目が覚めた。阪神大震災のときは地震の直前に目が覚めた。8歳だったぼくは31歳になったけれど、6面そろったルービックキューブを人生ではじめてみた口をぽかんと開けっ放した息子はまだ2歳半だ。

 今日のいちばん朝の時間にはほんとうにうれしい知らせがあって、かねてからの友人の町屋良平が芥川賞候補になった。候補作『しき』についてはもう過去のブログで書いたのでなにかをいまさらいうつもりはない。ふつうに、ほんとうに「ふつう」に、かれのことばや物語において代表作と呼びたくなるこの作品が受賞して欲しい感情しかぼくにはないので、受賞予想もするつもりはない。

www.waka-macha.com

また、地震があって、お風呂のなかにお水を貯めたりしていたあと、お手伝いをしているWEBメディアの「UNLEASH」で創作と批評のコラボ企画『ストレンジャー・シングス──いま、ここだけの小説【大前粟生×大滝瓶太】』が公開された。

unleash.tokyo

 あと大前粟生の初の単行本『回転草』も書肆侃侃房から出た。

「文章力」はそんなに求められていない

 ライターを職業としてはじめてまだ日は浅いけれど、そのなかで痛感したことがある。それは、「WEBを主戦場とするライター」は文章そのものだけで業界を生き抜いているというひとがまずいないということだった。
 もちろん、文章のクオリティは技術だけじゃなく経験や感覚に裏付けられるところもあるけれど、ぼくが言いたいのはそういうことじゃない。書き手を効果的にキャラクター化するプロモーション力とか、そういう文章の外部の重要度が非常に高いという話であり、その評価の基準となる原稿料も「PV」という定量指標があるがゆえに「広告力」により査定される。
 WEBという環境によりもたらされた不特定多数のメディアたちが自己組織化するように今の業界が形作られ、最適化されてきた。特定の領域に特化したコンテンツ作りなど、検索性を基準としたサイト構造があたりまえになり、またいつでもどこでも接続可能な気軽さから、「情報を手早く届ける」ことが価値として共有されている。活字を読む人は減ったと言われているけれど、WEBメディアを通して「ことば」に触れる機会はずっと多くなった気がする。それは言い換えると(これも以前の記事で言及したけれど)、ほとんどのひとがかつてより日々多くの「ことば」に晒されているということになる。大量のことばが迅速に消費されるのがいまのWEBメディアだと、ぼくは捉えている。

 そうした現状で、ぼくがずっとこだわってきた「文学」というフィールドはその対極にある。文章は手早く消費可能なものじゃないし、そこに書かれている「情報」は即効性もなければ利便性も定かではない。むしろ、読むという行為を通して「いかに思考するか」というプロセスが重視されるものもあり、なかには「意味」ですらないものもある。そうしたものは間違いなくWEBメディアにとってまず最初に切り捨てられるべきものだろう。

いわゆる「小説家が食っていけない」問題

 相容れないならばかかわらなければいい、我々には我々の世界があるし、そこには求めた人だけが接続すればいい。という考えはわからないでもない。むしろ究極的にはそれが理想で、文学を読んだり書いたりする営みは、(少なくともぼくにとっては)社会的な資本主義的な価値や承認とかとぜんぜん別な話になる。しかし、その態度でいると現実問題として食べていけないのが非常に困る。小説を読み、そして書くために必要なのは何よりも時間で、時間を得るためにはお金がいる。すると人生のほとんどの時間を捧げるもの、つまり「文学そのもの」でお金を稼げないと、文学をすることすらできない。兼業とか専業とか、さまざまなスタイルでの文学への関わりはもちろんある。ただ、現状では「ほんとうに文学しかできないひと」がひじょうに淘汰されやすい仕組みになっている。小説家として一定の評価を受けているひとでさえ、小説だけでは食っていけてないなんてことも珍しくない。

 一方で、WEBメディアは「書く」仕事ができるひとを常に求めている。もちろんWEBメディアが求める「書く」は小説家のそれとはぜんぜんちがうけれども、技術的には明らかにとんでもなく「書ける」ひとたちよりも、「書く」という技術がほとんど備わっていない「書きたい」ひとたちのほうがはるかに多くの仕事を得ているという現実がある。
 ニーズとか、そういう問題はもちろんわかるけれども、このことは個人的にとても辛い。経験うんぬんがなくてもWEBライターとして誰でもすぐに書きはじめられることはすばらしいのはいうまでもないが、これは「意味」と「伝える」という機能ばかりが優先されて文章から表現性が損なわれ続けている原因にもなっている。だれでもわかって、だれでも共感できる文章を、義務教育を受けた人間ならばだれでも書ける文章で書いたものがお金になっている。
 これはもちろん当然そうなるべくしてなっている。なるべくしてなっているのだけれど、同時にこれは「わたしたちは多数派じゃなければ生きられない」ということと同じになる。

文芸メディアじゃないWEBメディアに作家をひっぱりだすこと

 作家が作家の仕事に集中しながら生きていくということを考えると、そもそも小説じたいがもっと読まれる世の中じゃないと無理な話で、どれだけ文芸メディアをぶちたてようが、いまの構造、つまり「文章の読まれかた」そのものが変わらなければダメなんじゃないか、と最近は考えるようになってきた。
 そのためにも、「偶然に文学作品に触れてしまう」というシチュエーションをもっと多く作らなくちゃいけないだろう。読むとか読まないはもちろん一人ひとりの自由意志によるけれども、その偶然がなければそもそも何かが変わりようもない。ぼくが「文芸メディアで小説や詩や短歌や批評を載せても意味がない」と考えている一番の理由はこれだ。たぶん、いまはゲリラ的なかたちで文学が世の中に点在していてもいいんじゃないか。この点在はコミュニティの形成とおなじレベルで重要だとおもう。

むかしみたいに、

  電子書籍でたまに小説を寄稿したり、書評や批評を書いたりすることを仕事にしてみると、やっぱりどこかで世の中と調整しないといけないことがどうしても出てくる。掲載する文章や内容もそうだし、TwitterなどのSNS上の発言だったりもあって、いろいろ神経を使わないといけないことも出てくる。発信意識というか、それじたいがけっこうしんどく感じる。
 むかし、友だちと芥川賞候補が出たらその受賞予想をツイキャスで流したりしていた。作者にへんなあだ名を勝手につけたり、作品を気ままにいじったり、本気で批評したりしていて、それはもちろんそれらの作品が「書かれた」というそのことじたいが好きだからそうできたわけで、ほんの2年ほど前でしかないそのときが、いますごく遠くに感じる。あのときはまちがいなくたのしかった。そのたのしさで仕事をしようと「そこから始まった」のにもかかわらず、いまは仕事で「そこを目指している」という感覚がある。
 好き勝手にしゃべるとか、そうした表層のたのしさじゃない。友だちとワイワイやりながら、それぞれの価値観をときに戦わせるみたいな、そんな感じのヤツ。10年後くらいにそこまで戻ってこれたらいいな、とおもう。

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 ともあれ、「WEBメディアに小説が掲載されている」というのが数年後にはあたりまえになっていて欲しい。というわけで、

『ストレンジャー・シングス──いま、ここだけの小説【大前粟生×大滝瓶太】』

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