カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


たつひこさんのこと。

 はじめてできた小説を書く友だちは「たつひこさん」というひとで、「たつひこ」という名前は旦那さんの名前なんだと教えてもらったのは、小説投稿サイトで何回かコメントをつけたあとだった。

 いまでこそ小説を書く友だちというのは増えたのだけれども、いまもむかしも変わらないのは「書く」という営みだけが生命線ということ。書くのをやめたひとはたぶん自分でも気がつかないうちに小説を書くのをやめてしまっていて、いつの間にかいなくなってしまう。大学を卒業して会社勤めになって日々忙殺されるうちに書かなくなる、みたいなわかりやすい話もあれば、新人賞で結果を出せずに疲れ切ったようにふっと消えていくひともいて、一時的にモーレツに書いたと思ったらすぐにネット上からいなくなるひともいた。たつひこさんは上記のどのパターンでもないひとで、ぼくの友だちで唯一、明確な断絶線を持つひとだった。

 

 

 ぼく自身が小説を書きはじめたのは23歳の夏で、そのときたまたま川上未映子の詩集を読んで、散文という表現の器の広さのようなものを感じ「こういう感じなら、ぼくもちょっと何か書いてみたい」とおもったのがきっかけだった。そうおもったその日のうちに原稿用紙10枚くらいの掌編を書いた(信じられないほどの駄作)。それを小説投稿サイトで公開し、文章がきれいだとか、理系っぽい感覚や語彙がよいとか、そういう感じの(いま見れば)ぬるい褒めあいみたいなことを複数のひととするようになり、これの前の前の前の前くらいに作ったブログはそのサイトのユーザーとコミュニケーションを取るためのものだった。たつひこさんは当時25歳の神奈川県に住む新婚さんだった。むかしからミステリ小説とかゲームとかが好きで、社会人としての生活に慣れてきた当時、なんとなく創作をはじめてみた、とかそんなことをいっていた。
 この当時のぼくはいまみたいなポストモダン文学の影響をガチガチに受けた小説なんて全然書かなかったし、名作と呼ばれる小説もほとんど読んでなかった。いまの自分が影響を受けすぎているピンチョンやマルケスなどの海外文学は1冊も読んでなかった気がする。たつひこさんは貴志祐介が好きで、『黒い家』とか『クリムゾンの迷宮』とかを勧めてくれて、そのときハードカバーで出たばかりの『悪の教典』を読み終わったらぼくの京都の家にメッセージカードと一緒に送ってくれた。全然かわいくないマスコットキャラみたいなのがカードの右隅にいて、それ以来ぼくはなにかあるたびに「ぜんぜんかわいくない○○」というフレーズをじぶんの小説にこっそり忍ばせるようになった。
 小説を書きはじめた当初というのは多くのひとがそうなんじゃないかとおもうのだけれど、小説を書くことそれ自体がたのしくて、そしてそれを友だちに読んでもらうのがまたたのしい。おそらくはこれだけでほぼすべてが満たされる。文学賞なんてものも考えず、というか「職業作家になる」なんて発想がそもそもないから、月に1回のペースで30枚程度の短編を仕上げるという生活だけでしあわせになれる。ぼくはいまでも個人的に30〜50枚くらいの尺の小説がいちばん書きやすいと感じるのだけれど、これはおそらくこのときの名残だ。30枚という尺はネット上で読み切るにはちょうどいい尺なのか、コメントがとにかくたくさんつき、思いつきを試すにはちょうどよかった。
 それでずっと遊んでいればよかったんじゃないか、とたまにおもう。だけど小説投稿サイトには「文学賞が欲しいひと」というのが少なくなくて、その人たちがいろんなところで「公募!」「公募!」という。これが公募文学賞、いわゆる新人賞のことだとまもなく知ることになった。
 向井千春くんという当時大学4年生の、舞城王太郎みたいな小説を書く(事実かれは舞城が好きで、かれの影響でぼくも舞城を読みはじめた)男の子がいて、そのかれが、
「公募だすんなら、ネット上に試作品あげられないじゃん。だからそーゆーのを読み合う場を作らない?」
 といって、FC2かどこかのサービスを使ってSNSを作った。まずは向井くんとぼくがあれこれ試してみて、そこから共通の友人のたつひこさんや千川冬馬さんという方などを招待して、それからあんまり交流はないけれど小説を書いてる歴が長そうなひと(TKさん、まおまおさん)なども招待して、けっきょく10人くらいでわちゃわちゃすることになった。限定公開の日記にはそれぞれが構想中の小説の断片を書いて公開し、「ここどうしたほうがいいですかね」とか「とりあえずここで連載すれば無理やりにでも完成させないといけないから……!」みたいなモチベーションにしたりし、でもやっぱりみんなでやってるSNSだからみんなが参加することも定期的にやりたいよね!ということになって、月1で読書会をしたりした。ファンタジー好きの千川さんは恒川光太郎『夜市』を、日本の純文学をよく読むまおまおさんは町田康『くっすん大黒』を、たつひこさんは折原一『101号室の女』を選書した。まったく知らない作家の作品を真剣に読む、ということを定期的にするようになったのはここで向井くんが企画してくれたおかげだとおもう。博士課程の試験に合格し、修論もはやめに書きあげて、12月に24歳になって、その年の12月31日にはじめて文学賞(文學界)に応募した。年が開けてから、向井くんがSNSは3月末で閉鎖するといった。理由はあんまりいわなかったけれど、どうやら2ちゃんねるにSNS内の情報を流しているひとがいるらしく、これは調子に乗ってぼくがちょっと仲良くなったひとを誘いすぎたせいだった。向井くんはSNSが閉鎖すると同時に連絡が取れなくなった。かれが150枚くらいまで書いていた『ゴミステーション』という小説がおもしろく、団地住まいの中学生の人間模様と、終始漂っている「暴力」を想起させる危うさがよくマッチした作品だった。だけどそれはもう読み返せないし、その先を読むこともできない。3月にも文学賞に応募した。

 SNSが閉鎖されてからも5人ほどとのやり取りは続いた。しかし気がつけばポツリぽつりと減っていって、小説を書いているのか書いていないのかはわからなくなった。

 

 

 博士課程に進学した。無謀な研究計画を立てたら指導教官のM先生に「無謀だねぇ」と笑われた。それから、それくらいでちょうどいい、といわれた。SNSは閉鎖したけれど、小説は書き続けていた。作家になりたい、とかそういうのではなく、下手でも短くても小説をたくさん書いていると「どうして小説が書けてしまうのか?」が気になるようになって、このあたりからヌーヴォーロマンやポストモダン文学を積極的に読みはじめた。作風ががらりと変わって、友だちからは「よくわからない」といわれるようになった。好意的に読んでくれる友だちが減って、このあたりから「小説を書くのってしんどい」みたいな感覚を自覚した。やめたらよかったけれど、やめれなかった。
 たつひこさんとは連絡を季節に1回くらいのペースでとっていた。おたがい知り合った小説投稿サイトを使うことはほぼなくなっていて、小説ができるたびに書いたものを近況報告とともにメールで送る、みたいな関係になっていた。おたがいブログをやっていて、彼女のブログはブログとしてとてもおもしろかった。職場でのダイエットレースや、ハマっている乙女ゲーの話、九州の実家で飼っていたバロンという犬の話、近々あるという結婚式の打ち合わせの話などを、ユーモアたっぷりのことばでたのしげに書いていて、読んでいてたのしかった。小説のほとんどは、以前読ませてもらった短編を150枚くらいの尺に書き直したもので、つまり「賞に応募できる尺」に改稿したものだった。小説家になりたい、とかそういう話はほとんどせず(一方でぼくは割と書くことを仕事にすることをぼんやりと思い描き始めていた頃だった)、彼女の場合は小説という「趣味」を続けるモチベーションとして文学賞を使っているという感じだった。ぼくは奇をてらった文体や構成の、支離滅裂な小説を量産していた。ちょうどこのあたりで、共通の友人のTKさんがエンタメ小説の大きな賞の最終候補に残ったことを知った。候補作の原型になったものはぼくらが小説投稿サイトを使っていたときにアップされていたもので、いまのぼくが読んでも文句なくおもしろいと断言できるものだった。少年犯罪を犯した子どもたちを専門にするカウンセラーが語り手の物語で、遺体を切り刻んだ少女を担当することになる。彼女のカウンセリングを通して語り手は狂気と悪意に日々さらされることになる。しかし、終盤には「悪意」の所在が語り手の無意識にあることを示唆する大きな一撃があり、それにより読者の認識が根底から揺さぶられる。友人の小説が文学賞の候補になる、とかそういうことはぼくにとってははじめてで、素直にとてもうれしかった。「小説を書くためのモチベーションとしての文学賞へのモチベーション」になった。
 ぼくもたつひこさんも、正直この頃の筆力というのはひじょうに拙かった。TKさんには遠く及ばなかったことは明白で、それは単純な技術不足だった。文体の構築にしろストーリーテリングにしろプロットの作り込みにしろ、そういうものは想像力を支えてくれるものになる。稀に独特の想像力の強さでおしきれる小説をかけるひとがいるけれど、ぼくやたつひこさん、そしてTKさんだってそういうタイプの書き手ではなかったとぼくは知った。技術的な幅の広さがあるからこそ、想像力にブレーキをかける必要がなくなる。想像力を発揮するためにはそのための技術がいる。こう考えてからぼくはますます技術に執着するようになった。むしろ、詩的言語を機械的に生み出し、表現そのものを過剰に行うことで、じぶんの内側ではなく文章そのものに想像力を見出そうとするようになった。この考えかたはのちにかなり改められたけれど、想像力の源泉をみずからの内ではなくテクスト上に起こる偶発に求めるというスタンスはいまも引き継いでいる。文章はますます支離滅裂になって、さらに「よくわからない」と言われるようになった。そうやって1年が過ぎ、ぼくは留学し、そのあいだに「違う時空にいる男の子と女の子の話を物理的条件を共有しながら同時に語る」という短編を書いて、「よくわからないけれどラストはよかった」という感想をもらった。
 そのとき代わりにもらったたつひこさんの小説が「やさぐれたアラサーの独身女子が乙女ゲームにハマって、ゲームの舞台となった土地へいく」というもので、これがめちゃくちゃおもしろかった。この小説はいまでも年に1回くらい読む。初期の本谷有希子をちょうど読んでいたらしく、ピンとくるものがあったと言っていた。「小説であること」により強制された文章が一切なく、終始彼女がブログで書いている文体にちかく、何より自分がもっとも好きな話題について「小説を書く」ということを心からたのしんでいることが1文単位でわかる。ぼくはいまもむかしも、そういう小説が好きだ。そういう小説が好きじゃなかったら、わざわざインディーズ作家の小説を読もうなんておもわない。そうした純粋なたのしみに満ちた小説は、たとえ技術的に至らなかったり普遍性がなかったりしても、名作と変わらない読書体験を与えてくれる。ぼくはそういう読書をして生きていきたい、心からそう思える作品だった。だからぼくはこの小説をいまでも読む。小説を読んだり書いたりするのがしんどくなったとき、救ってくれるのはこういう小説以外にありえない。
 ぼくの結婚が決まったりした。秋だった。そのとき「違う時空にいる男の子と女の子の話を物理的条件を共有しながら同時に語る」という小説をながいものに書きかえようとしていた。その小説は「生者の世界と死者の世界は、非常に遠く離れているけれどもそれは有限の距離でしかない」という軸があった。ただ、完成させるための技術的な調整が必要で、習作として「年に1回、全員が名前を変える村」の小説を書いた。ひさびさにたつひこさんが「ちゃんと読めた」といってくれた。その感想のメールには「妊娠した」と書いていた。

 

 

 春になった。就職活動をしていて、修士課程のときの同期がリクルーターとして研究室に遊びにきたりした。工場見学に誘ってもらったりしたけれど、けっきょく「博士課程の学生は推薦の対象外」とか「専門が合わない」というおきまりの理由で落ちた。メーカーにいくのはやめて、いわゆる「文系就職」をすることにした。たつひこさんとの連絡はだいぶ間隔があくようになっていて、忘れた頃に返信がかえってきたりした。かなり身体に負担がかかっていて、小説を書くどころか読むこともできない状態だと春先にきたメールには書いていた。ぼくの姉の妊娠をおぼえていてくれていて、「3月に無事女の子を出産しました!」と返信した。その後、返事はなく、ぼくらのやりとりはここで終わった。妊娠の経過が主に書かれていたブログの更新も途絶えていた。
 夏。そのブログが、突然更新された。長く更新が途絶えていた経緯についての簡単な説明があり、その後に自身の出産について簡単に書かれていた。死産だった。生まれてくるまえにもうお腹のなかの子どもは死んでしまっていて、それを知ったうえで彼女は出産し、死んだ子どもを抱きしめた、と書いていた。余計な形容などは一切なく、事実だけが淡々と続いていた。その後に、小説を通じて知り合ったひとたちへのメッセージがあった。いまはもう何も考えられない、かろうじてこの文章をかけたけれども、だれかとコミュニケーションをとったり、小説を読んだり書いたりすることはできない。もしかしたら戻ってくるかもしれないけれど、それにはとても時間がかかるとおもう。そういう内容だった。
 数年に渡って仲良くしていたひとにこうしたことが起こるという現実を、フィクションを書いているにもかかわらずぼくはまったく想像できなかった。実際にその知らせを受けたあとですら想像できず、支離滅裂なことを支離滅裂なことばで考え、強い罪悪感があった。ぼくが春頃に「検索したら親しいひとの子どもが死ぬ」といわれていた「コトリバコ」なる都市伝説を検索したせいなんじゃないか、というめちゃくちゃな罪悪感を持つことさえ罪だとおもった。ぼくは彼女にメールを送ってしまった。しかしすぐに後悔した。圧倒的に正しくなかった。ぼくは彼女に会ったことがないし、小説を書いて読みあうだけの仲でしかない。なにか言葉をかけることしかできないけれど、その言葉のどれもが彼女のためにならない。「ためになる」という発想じたいがおかしい。ぼくがどうしても行いたい「善」がどれも正しくない、「善」という概念じたいが「無自覚の悪意」でしかなかった。

 

 

 それから5年経った。じぶんの結婚式も終わり、会社に入って退職し、フリーランスとして文章書きになった。
 子どもが生まれて父親になった。父親になって痛感したことは、じぶんの子どもが死ぬ情景がかんたんに思い描けてしまうということだった。ベランダに出た息子はベランダから転落し、包丁を握ると息子の身体が切り刻まれ、横断歩道を渡れば車に轢かれる。育児にはそういう恐怖が偏在していて、常に「死」を回避し続けるような不気味さがある。これがぼくにだけある想像力なのか、それとも「親」なる存在が強制的に植えつけられてしまう想像力なのかはわからない。ただ、ぼくが生きている限り、どれだけ「死」を想像しようともそれは究極的には他人事でしかない。妻が息子を出産するとき、ひたすらふたりが健康であることを願っていた。たつひこさんのことを思い出していた。実際に生まれると「息子が生まれた!」というよろこびよりも、妻と息子が死を回避できたことに安堵した。ここで感動の涙を流せないじぶんははたして「正しい」のだろうかと悩んだ。すべてのことは究極的には他人事でしかない、ということはどうしようもなく絶望で、真剣に物事を考え、文章にしようとするほどその欠陥ばかりを際立たせてしまう。我が子は残酷なほど他人だったと知った。たつひこさんのことがあった1ヶ月後、ぼくはじぶんの小説でこんなことを書いていた。

 

 わたしが探しても見つかることなんてありえないとわかっていた。会社かこの家しか可能性としては考えられなくて、左手だけのちいさな体ではイナイの肩に乗らないと他の場所にいくことなんてできなかった。イナイの肩から落ちて、会社と家のイナイがいつも自転車で行き来する道のどこかにいるだろうとももちろん考えたけれども、それだったらレフティは道端のわかりやすいところでイナイを待っているはずで、家から会社にもう一度いくイナイは見つけたはずだ。それでレフティが見つからないのだったら、レフティはもうこの星にいないか、あるいはわたしたちともう会う気はないということだ。考えられるふたつはどっちもかなしいけれども、前者であってもらいたいと反射的に思うほど、わたしの心はレフティに依存していたのだと気づいた。わたしはイナイみたいにずっとレフティのそばにいたりしていないし、もともと積極的に関わりを持とうとしたわけではなかったレフティがわたしたちの家にいる経緯を考えると、わたしがレフティがいたりいなかったりすることに関してなにかをいうのは、とても悪いことに思えて仕方がなかった。じっさい、わたしはレフティがいないことがかなしいのか、と考えれば、ぜったいのかなしさをレフティの不在に感じているなんていえないような気がしてしまう。イナイのとても慌てた、この世のかなしみのすべてに押しつぶされようとしている声の震えに同調しようとする、わたし、という体の機能がイナイとおなじだろう気持ちを計算し、算出された数字やことばで指し示し、わたしにそれを感じさせているだけかもしれないという可能性を、わたしにはぜったいの正しさで否定することができない。わたしはいつもテレビを見ているようだった。この宇宙のいろんなところで起こっている、すべてのうれしいことやかなしいことに対して共感しなければ、わたしは、世界、と換言されるわたしでないひとのいる星で笑ったり泣いたりしちゃいけないんだと思っていた。とても長い時間そうだったから、いまも自覚できないレベルでそういうふうになっているのだろう。共感、という鎖を使ってわたしをわたしでない世界につなぎ止めて置くことに安心していたけれど、その世界について問うことを、切実なものとして行ってこなかった。わたしが、世界、と呼んできたものは紛れもなく、少なくともテレビや新聞、わたしの眼球の向こうのひとたちにとって絶対的に正しい世界だっただろう、しかしそれは、わたしの世界、として認知しうるものだったのか? まるで空にピン留めされた太陽の光にカーテンの開け閉めで偽りの意味を着せつけるように、わたしのものでない世界をわたしの世界と思い込んだ。わたしでないものを、わたしそのものとした。わたしでないものを、わたしは恐ろしいほどに所有したかった。イナイの力いっぱいかなしむ心を、わたしはわたしのものとして所有したいと願っていた。そのことにわたしは絶望した。うつくしいものは絶対的にうつくしくあり続ける、けれども、うつくしさを求めるものはいつだって醜い。わたしでないものをわたしと思い続けたわたしの世界は数え切れない自己矛盾を犯し、とても醜い形をしてもなお、うつくしさを渇望しつづけている。

 

 この小説を書いてからおよそ3年、ぼくは小説を短編でさえ完成させることができなかった。会社員生活の生きづらさとか、単純な疲労とか、そういうこともあったけれど、「書いた文章のどれもが正しくない」という感覚が常にあった。けっきょく、ぼくはあらゆることを「他人事」としてしか認識できないというところで嫌気がさしてしまっていて、書きたいものも書くべきものも見当たらず、ただなんらかの物語の断片だけを書いていた。ぼくはちいさい頃から根本的に他人に興味がなく、「小説を書く友だち」についても「書いた小説」でしかほとんど認識していない。それでしか認識できない。たつひこさんについてもそうだったのだろう。たつひこさんに起こったできごとについてなにもわからずにうろたえるしかなかったのは、ぼくは「たつひこさんの小説は好きだけれど、たつひこさん自身には実のところ興味を持っていなかった」ということなんじゃないか? しかしいまおもえば、むしろそうであればよかった。ぼくは中途半端な良心でたつひこさんという「人間」に目を向けてしまったがゆえに、いまなお気づけていないいろんなものを見失った気がする。テクストとして存在していた我々は、ずっとテクストとして存在すべきだった。テクスト以上の何かを求めてはいけない。互いに書いた小説のこととか、このひとにこんな小説を読んでもらいたいな、とか、このひとにこんな小説を書いて欲しいな、とか以外に特に話すべきことなどなにもない。そういうものがあってはならなかったんじゃないか。
 小説を書けなかった期間に、むかし書いた小説を新しくできた小説投稿サイトに掲載し、そこでたくさん新しい友だちができた。同人誌をつくったりもした。そのメンバーのひとりが新人賞を受賞してみんなでかれのアマチュア時代の作品の書評集を作ったりもした。そのあいだもずっと新しい小説が書けないままで、そのときにたつひこさんをはじめとするむかしの友だちを思い出した。みんなもう小説をやめてしまったのかもしれないけれど、またなにかの思いつきとかで書いて欲しいな、とおもった。純粋に創作をたのしんだ欲のない小説が読みたい。承認欲求で汚れていない小説が読みたい。息子が生まれ、子育てをしているときに急に小説がまた書けるようになった。息子の成長を間近で見ることで「他人事」をそれなりに諦めたり受け入れたりできるようになったからかもしれない。

 小説を書きはじめたとき、ぼくにいろいろ小説を教えてくれたひとたちについて、ぼくが覚えていることのほとんどはかれらの書いた小説くらいだ。その友だちらの小説が読める未来がくる可能性はめちゃくちゃ低いだろけど、ぼくが「まちゃひこ」として続けていればそのうち思い出してくれるひともいるんじゃないかな、と常々おもっている。これはそういうお話。友だちが夫の名前をハンドルネームにして小説を書いていたという過去がまたいつか未来に現れるまでの、みじかいお話。