カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


遠い世界からことばが届くまで──澤西祐典『文字の消息』

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 2011311日、東日本大震災が発生した瞬間、ぼくは淡路島の実家にいた。バラエティ番組の再放送を家族と見ていて、その上部に震災速報が映し出された。実家は阪神大震災のときに震源のほぼ真上にあったのもあり両親や祖母は地震には敏感で、震度やマグニチュードのことをとても心配した。Twitter上でさまざまな情報や感嘆符と同義のことばがTLにあふれ、それからまもなく番組はとつぜん臨時ニュースに切り替わったと記憶している。そこからのことはよくおぼえていないけれど、それから何日ものあいだ、さまざまなテレビ局が東北の地に押し寄せる津波の映像を何度も放送した。

 澤西祐典『文字の消息』はこの時期に書かれた小説だと、心斎橋アセンスで行われた翻訳者・木村榮一とのトークイベントで作者から語られた。震災という非常時に限ったことではないけれど、TwitterをはじめとするSNSはもうその当時はあたりまえのものになっていて、ネット上では瞬間的な情報や感情が脊髄反射的に不特定多数へと発信される。こうした物質的な質感をともなう情報や、よりソフトでどろっとした感情などは「文字」という形態をとり、非常に早くやりとりされることが多くのひとにとっての「あたりまえ」となっているけれど、作者はそうしたものに対する「違和感」を感じていた、とイベントで語った。

文字の速度

 表題作『文字の消息』は、そうしたSNSを中心としたネット上のコミュニケーションにより忘れられようとしている「手紙」による書簡体小説だ。文字が降り積もる町で過ごすS夫妻が別の町に向けて送った手紙が、この「文字が降る」という不条理な現象についての資料として並べられた構成をとっている。文字は「降る」といわれるが、じっさいのところ当事者たちが「降る」様子を見たことはなく、気がつけば道や屋根や押入れなどあらゆるところに文字が「堆積している」ということが緻密に説明・描写され、あくまでもこの事実のリアリティに基づいた作品世界が構築されている。
 しかし、この小説において特筆すべきことは、この小説が「災害」や「不条理」以上に、文字が降り積もる町で綴られた手紙がペンで「書かれた」のではなく、「降り積もった文字を集めて」配置されたものだということだ。この事実が作中で示されることにより、この小説の射程距離は「書かれている内容」だけでなく「この手紙がつくられる過程」までに広がる。もとより、書簡体小説は「目の前に手紙がある」という事実があり、そしてその手紙が時間をかけて受取手のもとへとやってくるという前提があり、それによって「媒体」の特殊性がもたらす固有の世界が展開されるという性質をもっている。
 この「媒体依存性」とも呼べるものは、2010年代日本を舞台とした小説であれば、手紙はSNSを主としたインターネットを介したツールへと置き換えられるのだが、先に述べたようなほぼリアルタイムでの交信を可能とする驚くべき伝達速度により、それらのユーザーは大きな物理的距離の隔たりを超え、共在の感覚を前提としたコミュニケーションをとる。
 たとえば現代作家の上田岳弘の作品では、インターネット技術を基盤とした社会を具体的に描きながら新たな認知機構を作中に構築し、距離や時間を超えた共在感覚を描き出すことに特化した作風をとっている。上田の作品について述べるにはそれ固有の複雑な議論が避けられないが、そのようなフィクション作品の「媒体依存性」を考慮すると、澤西の作品は、常にこれとは対極のスタンスを取り続けていたと考えられる。

なぜ小説を読めるのか?

 澤西祐典の小説の特徴をひとことでいうとするなら、「徹底されたフィクション意識」ではないかとぼくはおもう。
 一般に「フィクション」は「嘘物語」として認識され、その対極として「リアリズム」があるように語られることがあるけれども、この両者はおそらく相反はしない。リアリズムとは物語の外でなく内にあり、その物語の真実性を根底で支える態度だと捉えるならば、澤西の作品群はその細部の盤石さから徹底したリアリズムにより構築されているといえる。そのうえで、フィクションに対して自覚的な作家だとぼくは読んだ。
 かれの「フィクションへの自覚」は、併録の『砂糖で満ちてゆく』『厄災の船』、デビュー作の『フラミンゴの村』『氷の像』などでも共通してみられるのが変身譚など過去の文学作品のオマージュや伝記的な語りとして現れている。かれの作品の多くでは描かれる物語の異質さを担保する資料が存在し、その資料をもとに描かれる現実を細かく検討するというスタイルが採用される。つまり、描かれる世界がどこかの世界と地続きであることが前提となっていて、その源泉が過去の文学作品につながることで、「ちがう物語を読み直す」ような質感を与えてくれる。
 これはある意味でかれの作品が「現代日本とは遠い世界」を描いているからこそ必然性をもって行われたものだろう。「ここではない世界の物語=小説」を読める、ということじたいがとても不思議な現象だとぼくは考えているのだけれど、この「読める」を下支えしているのは読者の世界とフィクション世界を接続する「なにか」の存在だ。現代日本や、その歴史的文脈上にある社会を舞台とするならば、ぼくらの生活に関わる「あたりまえ」の感覚がその「なにか」となりえる。ここで重要なのは、そうした「あたりまえ」それじたいが作品の引用源として機能しているということだ。澤西の作品では、作品舞台を現代日本から遠い位置に配置することにより、読者と作品をつなぐ「なにか」の構築において大きなコストを必要とする。それをなすためにかれは文学系譜を引用源としているのだが、同時にこれは現代の「あたりまえ」の感覚の解体の効果ももたらしていだろう。たとえば『文字の消息』において、書簡体小説の系譜が引用されることで、ぼくらが生きる現代日本のインスタントなコミュニケーションのありようがまず解体される。そして、「文字を書くのではなく、収集する」というオリジナルな発想が提示されることにより、「ことばの速度」そのものへの極めて批評的な態度をとった。
 澤西の作品群は一見「古臭く」見えるが、そもそもこの小説が現代に書かれ、現代を生きるぼくらが読めるというその仕組みにこそ大きな批評性を抱えている。

長い年月が経っても読まれる、ということ

 小説だけに限ったことではないけれど、音楽や絵画の世界でも、「作ったものが作者の死後も生き続ける」ということが最終目的として語られるケースがおおくある。小説をあまり読み慣れていなかった時期とかぼくは特に感じていたのだけれど、19世紀文学やそれ以前のものとなると、その作品を読むぼくと作品世界の接点が見出せず、どうしても読むのがしんどかった。とりわけ「小説なんてもの」はそうしたとっつきにくさだけでなく、単純に読むのに時間がかかるなどの現実的な問題があるため、そう多くのひとに読まれているわけではないのが実情におもえる。小説は発表された日から時間を経るごとに読者を失っていく──という性質を持っているのかもしれない。
 そのことを考えるうえで、プロモーションとか絶版とか電子書籍の登場などの小説が存在し続けるためのシステム上のあれこれは当然無視できない。しかし、それよりももっと小説の内側にある「読者と接続するもの」について考えることが、「長く生き続ける小説」というものを検討するためには不可欠なんじゃないか、とぼくはおもう。それは固有名詞を使わないとか、特定の時間や土地に限定しないとか、そういう表面上の問題なんじゃなくて、「小説そのものがどういう生態系のなかでどのように位置付けられるのか」によるだろう。歴史か、あるいは作家個人か、いずれにせよ「系譜を持つ」ということはだからこそ無視してはならない。澤西祐典はそれに対して真摯なスタンスをとった実作者だろう。

 小説を読む、というのは個人的に「その1作だけを読む」ということじゃないとおもっている。かつてぼくがドストエフスキーなどのいまでは「古典」と呼ばれる文学作品に苦手意識を持っていたのは、「系譜」として読むだけのバックグラウンドを持っていなかったからだ。もちろん『カラマーゾフの兄弟』も『罪と罰』もそれ単体でじゅうぶんに凄まじくおもしろいといまのぼくははっきり言えるけれど、物語が正しく読者それぞれのもとへやってきてくれる時間というのはそれぞれに異なっているし、ときに莫大な時間を要する。物語が遠いところからやってくるまで、ぼくらはひとつ小説を読みながら、他の無数の小説も読み続けなければならない。

 拝啓
 若草萌える季節トなりましタが、いかがお過ごしでしょうか。
 アレから文章ヲ作ル練習をたくさんいたしマした。その中でトアル大発見ヲしましたので、ご報告しマす。
 それハト言ウと、文字を組み立てるノニ必要ナ欠片が、イツモどこかカラ現レルノデス。マルでこちらノ気配ヲ文字ガ察してイルかのヨウです。こチらが求めルと、それマで無意味に溜まつていルと思つた文字ノ山から、必ずや目的にかなった欠片が見つかルのです。

──澤西祐典『文字の消息』