カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

2018.8 掌編小説「青は藍より藍より青」第一回阿波しらさぎ文学賞を受賞しました。

2017.6 文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

WEBメディアで小説を公開することについて/小説『娘のトースト(狩野ワカ)』書評

 妻の高校時代の友人が、卒業して何年か経ったのち自身がゲイであることを仲間に告白したという。そのとき妻らは、「は?」といった。そしてこう続けた。「なにをいまさら。高校のときからしっとったで」

 いわゆるLGBTについて、良くも悪くも非常に多く見かけるようになった。「悪くも」についてはいうまでもなく杉田水脈や小川榮太郎の発言をめぐるものであり、ぼくとしても可能な限り触れたくはない。
 しかし一連の騒動について、LGBTという概念やそうしたひとたちに特化した問題というわけではないとぼくはおもう。ひとの感情やアイデンティティと政治というシステムというものは、はたしてどの次元まで同列に語ることができ、また語られるべきなのだろうか。最大公約数的な選択により圧殺されるマイノリティの声はかならず存在し、またぼくらがマイノリティだとおもっている集団のなかにもマジョリティがあり、マイノリティがある。そうした何重にも折り重なる構造をなしているのが社会だ。その複雑さを思い知るたびに、ぼくはみずからのことばに懐疑的にならざるをえない。

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育児系WEBメディア「コノビー」で連載していたライター・狩野ワカの『娘のトースト』という小説は、我が子の同性愛を主題とした物語だ。語り手の母・庸子は不慮の事故で早くに夫を亡くし、女手一つで娘の唯を育ててきた。母娘のあいだではささいなことでも隠し事をせず「正直に」話すことがルールとなっているが、庸子はたまたま唯が同級生の女の子にむけて書いたラブレターを発見し、娘の秘密を垣間見てしまう。そのことをきっかけに生じたコミュニケーションの不具合とその修繕、母娘の次のステージともいえる関係性への発展に向かっていくという筋書きだ。

conobie.jp

 「紙」と「ネット」のことばの差異

 今回、ひさびさの書評でいわゆる「ネット小説」を扱ったのは、「メディアが表現形式を決めうる」という点について具体的に考える手がかりになりうると感じたからだ。この小説は、説明や描写といったテクストを「小説らしく」見せる記述が極端に少なく、語り手のなかで自発的に浮かび上がる記憶や感慨、そして目の前で起こっている事象の要点以外のことがほとんど語られない。
 このことについて、「ディテールの記述が自覚的に排除されている」と読むか、それとも「細部の詰めが甘い」と読むかで、小説の印象はずいぶん変わってくる。そして、おそらくは「長い文章の読み書きに慣れているひと」ほど後者のような印象を受けやすいだろう。しかし現実問題として、改行が少なく5000字を超えるテクストというのは読了率が非常に低く、「(ぼくのようなうっとおしい)小説好き」の正しさに合うテクストを書くと「WEBメディア的な正解」から遠ざかる結果になるのは想像に難くない。

「紙の本のことば」「ネットメディアのことば」には明らかな乖離があり、小説の実作を行う人間として、そして同時にWEBメディアで文章を書き編集を行う人間として、ぼくはこの両者の差異というものを常に意識し続けてきた。「ネットメディアのことば」を注視してみると、「流し読み」など労力・時間ともに低いコストで可能な限り多数の意味を伝達することを重視している傾向にあり、最たるものがいわゆる「まとめサイト」を中心としたSEO重視型のテクストになる。ネットのことばは「無駄」や「余白」をひどく嫌い、「意味のある情報」をいかに集約化するかというところで価値付けがなされている。

 WEBのテクストを読み紙の本で小説を読むという往復を何度も繰り返していると、じゃあこの「無駄」であり「余白」とはなんなのかとおもう。ことばの「使命」ともいえる機能はたしかに意味の伝達ではあるのだけれど、すくなくとも小説においては本論の意味から外れたところで「厚み」がもたらされるとぼくはおもう。

WEBメディアと断章を積み重ねる小説

 だからといって、「紙の本には内容的厚みがあるのに、ネットにはないよね」みたいな話をするのは明らかに正しくない。テクストはそれが記されたメディアに自生し、生態系を作っていき、それ自体には自然科学的にいってなんら問題はない。問題なのは、この生態系を前提としてどのようなテクストを読み書きしていくのかということだ。

 ぼく自身も手を動かしながら考えていることだけど、WEBメディアというかたちは現状では小説に向いていないとおもう。現在では電子書籍がかなり整備されてきたけれど、ぼくは小説投稿サイトで公開された小説も紙出しして読んでいたタイプの人間で、横書きでやたら行間が広いフォーマットで長文を読むのはかなりきつく感じる。その点、「娘のトースト」は全8回で1話あたり2000〜3000字程度で3〜4の断章で構成されているというWEB記事に非常に近い構成をとることでリーダビリティを担保している。
 ただ、この構成で小説を書くのは実のところかなりむずかしい。ディテールの描写を回避しながら小さな断章を積み重ねて小説を構成するのには、詩やアフォリズム的感覚と書かれなかったものへの配慮が高度な領域で必要とされる。そこでまず最初に想起されるのがブローティガン『西瓜糖の日々』だ。

リアリズム小説である『娘のトースト』とはまったくちがっていて、世界に対することばの立ち位置からしてまったく別の性質を持った小説なのだけれど、WEBメディアが(一般に)求める形式としての接点は多い。ただ、「WEBに適した体裁はブローティガンっぽいやつだからみんなどんどんポエム飛ばして行こうぜ!」となられても困るわけで、これはだれでもできそうだけど容易に真似できるタイプのテクストではない。「WEBで小説を読むための環境の整備」みたいなことはおそらく技術者やデザイナー、編集者によって試行錯誤されたことがあるだろうが、そもそも「WEBメディアに最適な小説の形式」というものはおそらくだれにも考えられたことがない。WEB的にすることで「損なう」のではない違う方法を、じぶんも含め、WEBの書き手たちはそれぞれ独自に考えるべきなんじゃないかとおもった。

多様性とディストピア

『娘のトースト』の内容の話をすると、これは自立の物語だとおもった。同性愛という「他人と違う価値観」に悩む娘・唯を、母親の庸子は理解できない。その相違によって母娘の関係性にほころびが見られるけれど、理解できない価値観をあるがままに承認することで「母娘」という関係性が「それぞれに自立した人間」へとアップデートされる。

 物語の題材や作者が作り出そうとしている雰囲気を考慮すると、どうしてもぼくはこの小説のよい読者になりえないのは自覚している。ぼくは小説に「リアルな感情」や「生々しさ」というものを求めない人間なのだけれど、気になった箇所があった。庸子が経営する花屋の担当会計士である同性愛者の中村さんのセリフだ。

「あの時、唯ちゃんの宝箱を見つけた時、庸子さんは、ただ箱を元に戻したじゃないですか。

唯ちゃんを叱ったりもしなかったし、無理に理解をしめしたりもしないで、わからないことはわからないまま、丁寧にふたをして、箱をしまいましたよね」

わからないことはわからないまま。私は、中村さんの言葉を心の中で繰り返す。

「庸子さんのそういうところ、素敵だと思うんですよね」

思春期の娘との悩みを、静かに打ち明けた/ 娘のトースト 5話 | Conobie[コノビー]

 もしもこの一言でほんとうに庸子がなんらかの救いを感じたとしたならば、それは庸子が唯の価値観を受け入れられたのではなく、みずからの正しさについて中村さんに承認してもらい安心したにすぎない。理解できないものについて、強引な理解をしようとすることは事実そのものを歪めてしまいうる暴力性を抱えていて、それ自体には庸子も気づいている。ならば理解できないものに対して「何もしない」のが正解なのかといえば、そういう話でもない。そこに無理解があるならば、何をどのように選択し、実行しても、必ず何かを損なうことは避けられない。ぼくはおもう。真に承認されるべきものはみずからの正しさや感情ではない。無理解によって損なわれつつあり、損なわれたものたちへの思慮を放棄したやさしさは不気味だ。そのやさしさはディストピアだ。彼女らが損なったものは良いとか悪いとかの二元論で片付けられるものじゃなくて、欠落のかたちがとくべつなだけだ。そのかたちは決して誰にも語られることはないけれど、そのかたちの気配はぜったいに隠せない。

WEBメディアで小説をもっと扱って欲しい、という気持ち

 ぼくはじぶんが「この作品にとって良い読者ではない」と感じたら言及を控えるようにはしているけれど、WEBメディアで小説が掲載されるということは決して多くないということを考えると、どうしても放っておけない気持ちになる。WEBの文章の仕事をしていると、「WEBメディアで小説なんか載せても誰も読まないでしょう」みたいな雰囲気を日々感じるけれど、ぼくは作家でもライターでも誰でもいいので、もっといろんなメディアでいろんな書き手の小説を掲載して欲しいとおもう。小説を読まないひとが、いろんなかたちの小説を偶然に読むという状況があれば、文章のありかたはまたちがうものになるだろうな、とおもう。