カプリスのかたちをしたアラベスク

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2018.8 掌編小説「青は藍より藍より青」第一回阿波しらさぎ文学賞を受賞しました。

2017.6 文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

「メルヘン翁」をもう一度/さくらももこ『もものかんづめ』書評

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 祖父が死んだのは私が高二の時である。
 祖父は全くろくでもないジジィであった。ズルくてイジワルで怠け者で、嫁イビリはするし、母も私も姉も散々な目に遭った。

さくらももこ『もものかんづめ』収録、「メルヘン翁」

  妻はマンガこそ大量に読むが、活字はまったくといっていいほど読まない人間だ。付き合いはじめた当初のぼくも活字などまったく読まない人間だったのもあり、その数年後には共に暮らす家が字ばかりの本で埋まるとはゆめゆめおもってもみなかっただろう。特に最近は本を読むことが不可欠な仕事をするようになったこともあり、2LDKの我が家の一室は書庫と呼ぶには機能性を著しく損なった物置と化している。本の山に阻まれてカーテンの開け閉めすらままならない状況に妻は頻繁に激怒し、あんたは片付けひとつできないのか、と問い詰める。そのたびにぼくはのらりくらりと彼女の攻撃をかわすのだが、最近はわりと精神面に被弾することが多くなった。現状維持はこれから不可能といっていいだろう。
 そこで淡路島の実家に帰るたびに、おそらく今後開くことはないであろう本をスーツケースにパンパンに詰めて持っていくようにしている。その選定作業がなかなか時間を食うのだが、その過程で妻の本を見つけた。先日亡くなったさくらももこ『もものかんづめ』だった。

 

 

 妻が滋賀の実家を出て京都市で一人暮らしをはじめたのは大学2回生の秋だった。
 引っ越してまもなくぼくと自堕落な半同棲生活に陥ることになるのだが、1DKの面積はそこそこ広いとはいえ天井がやたら低いこの部屋はあきらかに大人ふたりが長期間生活するには不向きで、いま考えればこの部屋で(というよりも2LDK未満の部屋で)同棲など考えられないが、それができたということはやはりそこに相応の恋愛感情があったということだろう。こう書くと妻とぼくの仲がよろしくないように見えてしまうが決してそうではなく、ぼくらの関係性がこの12年、すこしずつ変わり続けていったということだとおもう。1DKで共に過ごせる関係性が、そうではない関係性以上に愛情やらなにやらがあふれるものだというわけじゃない。ぼくらの生き方が変わっただけだ。
 その手狭な部屋に引っ越す際、妻は大量のマンガを実家に残し、必要最低限の荷物にとどめていた。その選び抜かれたであろう荷物の中に彼女のことばを借りれば「なんとなく」まぎれこんだのが『もものかんづめ』で、その後も就職、結婚を経て神戸までついてきた。

 しかし、ぼくの知る限り『もものかんづめ』を妻が開いたことは一度たりともない。が、数年に一度ぐらい文章についての話題が会話にのぼったとき、妻は『もものかんづめ』に収録されたエッセイ「メルヘン翁」の話をする。
 さくらももこの祖父・友蔵の葬式をシニカルなユーモアで描き出したこの一編は、「ちびまる子ちゃん」で造詣された心優しい祖父としての友蔵が、現実とは真逆だったことが記されている。その祖父が死に、遠い親族が来てわんわん泣いたり、遺体のひらいた口をしめるために「祭」と書いている手ぬぐいを巻いた滑稽な姿を姉と笑ったり、狭い棺に納められて組んだ手が乙女チックになったり、故人の死への感傷がどこにもなく、笑いと残酷が混交する。妻はこの話を思い出すたびにケラケラ笑う。特に、「祭」の手ぬぐいのくだりで祖母が「ジィさんは、いつでも祭だよ」と力なく呟くのだが、これが特にツボらしい。さくらももこが亡くなった際もこのシーンを思い出していたのだが、ここまで細かく憶えているならたしかに再読の必要もなさそうだ。

 さくらももこの「その後の話」によれば、この「メルヘン翁」に対する批判もいくつかあったらしい。「身内のことを、こんなふうに書くなんて、さくらももこってひどい。もう読みたくない」という手紙が二、三通ほど編集部に寄せられたらしく、彼女は読者個人の好き嫌い以前の「血縁」についての個人的な考えを述べた。

うちの爺さんは私や姉や母に対して愛情がなかった事は事実である。だから、当然私達も爺さんに対して何の思い入れもなかった。こういう事は、核家族でもない家庭では意外とよくある事で、私の友人にも母や自分自身が爺さんや婆さんにイジめられた為に嫌っているケースがいくらでもある。〝身内だから〟とか〝血がつながっているから〟という事だけで愛情まで自動的に成立するかというと、全くそんな事はない。かえって血のつながりというものが、わずらわしい事である方が多いとすら思う。

さくらももこ『もものかんづめ』収録、「メルヘン翁」

 愛情の所在や死生観について妻と話したことは一度もないが、10年以上一緒に生活しているとそうした思想を垣間見る機会はときたまある。詳細をここに書くつもりはないけれど、妻は死を自然科学的な現象として受け止め、それにまつわる感情についてはまた別のものとして切り離す。死ぬときは死ぬんやから、といった態度をとり、死に愛情の差異は示さない。だからといって、泣かないというわけではない。さくらももこの死を惜しみつつも「メルヘン翁」を思い出してまた笑う妻の姿を見ていると、愛情や死について考えることが〝必ずしも愛情や死について考えているとはいえない〟んじゃないかとさえおもえる。祖父の死にフォーカスが合っていない「メルヘン翁」は、いわば死の周辺をとりまく風景の素描であり、そのキャンバスのなかにぼくら読者も含まれている。