カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

2018.10 昨年刊行した電子書籍短篇集『コロニアルタイム(惑星と口笛ブックス)』第39回日本SF大賞にご推薦いただきました。

2018.10 短編小説『誘い笑い』を文学ムック『たべるのがおそいvol.6(書肆侃侃房)』に寄稿しました。

2018.8 掌編小説「青は藍より藍より青」第1回阿波しらさぎ文学賞を受賞しました。

紗倉まな『春、死なん』(群像2018年10月号)感想/奪われた死に場所

近況『たべるのがおそいvol.6』掲載

 たべるのがおそいvol.6(書肆侃侃房)『誘い笑い』という原稿用紙30枚ほどの短編小説を掲載していただきました。

 

 

 なし崩し的に就活をはじめることになった大学生が、YouTubeでむかしの漫才をたくさん見るというお話です。他にも小説は、麻酔から目覚めると私の身体も世界も何もかもがガラリと変わってしまうおそろしい小説『野戦病院(谷崎由依)』、酉島伝法なのに人間が主人公で造語もない『彼(酉島伝法)』、読み手の認識をやわらかに捩じ曲げるような8つの掌編が収められた『飴の中の林檎の話(北野勇作)』があります。

なにとぞよろしくお願いします。

「新人」のいろいろ

 今年は全体的に文芸誌の新人作品掲載が少ないような気がする。新人、といっても「新人賞でデビューした作家」「それ以外でデビューした作家」のふた通りがあるのだけど、ぼくが気にしているのは前者だ。もちろんまったくないわけでもないし、順調に作品を発表している作家もいるわけだけれども、受賞作以降の作品を発表できていない作家が多く、その一方で著名人による小説の寄稿が今年は多いような気がする。このバランスが気になるのだ。
 さっきから「気がする」といっているように、あくまでもぼくの印象であり、ちゃんと調べたことじゃない。批判とかをしたいわけじゃない。しかし、こうした引っかかりはなにかの気配だろう。小説は売れない。そういうことはよくいわれるし、書評を書いてもほとんどニーズなどない。しかし、「小説家のインタビュー」とかになると耳を傾けるひとが増えたりする。「小説」は求められない一方で「小説家」という存在は求められる、という現実はおそらくあって、「著名人に小説を書かせる」という試みはそうしたものに近い印象をどうしても受けてしまう。

 この文脈でこれから現役AV女優で、かつ文筆業も積極的におこなっている「紗倉まな」の話になると批判的な見方をしていると捉えかねないけれど、そういうことは一切ない。かつて群像が某ブロガーの小説を掲載したときは大きなショックを受けたのだけれど、今回の紗倉まなの起用については「しかるべき」ものだったとおもう。群像じゃなくても、どこかの文芸誌が起用するのは時間の問題だったんじゃないか、と。
 デビュー云々について、最初にグダグダ書いてしまっが、けっきょくのところ「掲載された文章が良いか悪いか」以外に関心を持つ理由も必要もない。となれば、「良い文章をかけてかつ、売り上げに貢献しうる知名度を持っているか」というのは起用において極めて重要なのはいうまでもない。テクストの価値は「内容が優れているか」という絶対的な尺度のほか、商業的尺度として「拡散性」みたいなのがあって、「商売」を成り立たせているのは「拡散性」だ。
 近年ではこの「拡散性」のゆがんだ技巧が使用されるケースがいよいよ目立ってきて、それが肯定されることで「良い文章」のありようまでも、個々人のさまざまな懐疑のまなざしにさらされるようになった。ひとを生かすことが良い文章だという仮定があったとして「経済を動かすことでひとを生かすものが良い文章だ」という結論が示されたとき、それに対する明確なことばを持てないでいる。ぼくは経済がつらい。 ひとりの書評家としておもうのは、新人賞という狭き門を突破したひとたちの小説をもっと掲載して欲しいということ。どこの会社でも職業でも「失敗して当たり前」とか「失敗を経験してどーのこーの」みたいな風潮があるけれど、作家には「失敗する場所」がそもそも少ない。

紗倉まな『春、死なん』(群像201810月号)

この先、『春、死なん』のネタバレを含みます。 

 

 

願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃

 紗倉まなによる中編小説『春、死なん』は西行が詠んだこの歌からタイトルがとられている。群像の目次には「高齢者の性を描く」と紹介されているけれども、このアオリ文は作品の紹介としては正確さに欠いているように感じられた。『春、死なん』では、妻に先立たれた70歳の男の性生活が描かれ、たしかにこのじいさんの家にはエロ本が大量にあったり、一度だけ寝たことがある大学時代のサークルの後輩と恋愛っぽくなったりもしてラブホに行ったりもするのだけれど、「高齢者の性生活を書くこと」が「高齢者の性を描く」ことにはならない。
 おそらくこの小説は高齢者の性でなく、死に場所を描いた小説だとぼくはおもった。タイトルにも使われている西行の歌はまさに「死に場所」をうたうもので、しかしこの小説はその「花(桜)」にあたるものがない。「死に場所の不在」が老人を「生かしている」という残酷さが、この小説のおもしろく、優れたところだと読んだ。

 またこの小説は、120枚という長さに対してギミックが多い。しかしそれらをきちっと「まとまった」かたちに手際よくまとめているところに、高い技量を感じはするのだけれど、そのせいか頭が悪くて品のない存在として描かれている一人息子が、あまりにも頭が悪くて品のない存在としてデフォルメされすぎているように感じた。たしかにこの息子が主人公夫婦の老後の生活の穏やかさ(=死ぬべき桜の下)をうばった、というかたちで読むことはわかりやすい理解を促してくれるのだが、明瞭な構造としてそれを提示されるとぼくはちょっと戸惑ってしまう。あくまで上記はすべてぼくの勝手な読みかたなのだけど、たとえ意図されてなかったとしても、構造がみえてしまうことは読みかたを強くやくそくしてしまう。そのやくそくはときにメッセージを強くするが、ときに小説をちいさくする。ぼくはメッセージが苦手だ。ひとがひとに送れるメッセージはとてもちいさい。
 紗倉まなが優れた書き手であるという確信を持てる作品だったからこそというのか、もっとわかりえないことを、メタファーですら捉えられない領域のことを書いて欲しいとおもった。