カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

2018.10 昨年刊行した電子書籍短篇集『コロニアルタイム(惑星と口笛ブックス)』第39回日本SF大賞にご推薦いただきました。

2018.10 短編小説『誘い笑い』を文学ムック『たべるのがおそいvol.6(書肆侃侃房)』に寄稿しました。

2018.8 掌編小説「青は藍より藍より青」第1回阿波しらさぎ文学賞を受賞しました。

地続きの異世界を目指して──現実と虚構の濃度、その位置関係をめぐる金子薫試論

 結末を決めてから書き始めたわけではなかったが、本間にとってモイパラシアとは、その純粋さが昂じて死に魅せられることはあっても、必ずや生の側に踏みとどまり、何があろうと懸命に生きてゆくことを望むような少年であった。
 ところが、かつて本間がその身に命を吹き込んだモイパラシアは、ソナスィクセム砂漠の南西部を走る貨物列車に轢かれ、いまや、ずたずたの轢死体と成り果てた。おそらくは線路に飛び込んだか、あるいは横になり列車が来るのを待っていたのであろう。原稿用紙の上には、列車によって切断されたと思われる少年の左腕が、無造作に投げ出されていた。切断面からは黒インクが血液の如く流れ続けており、もはや執筆など続けられる状態ではなかった。
──金子薫『アルタッドに捧ぐ』

   金子薫のデビュー小説は「小説の破綻」からはじまった。
 第51回文藝賞を受賞した『アルタッドに捧ぐ』は、先に引用した文章が冒頭に配置されており、この部分だけでも「小説を書く」という行為そのものが軸に据えられた小説であると読者に印象づけるには充分だが、この文章が提示する問題はさらに広く、深刻なものだ。自身が書いていた小説の登場人物が死んでしまっただけでなく、作者である本間の想像の産物であり、かたちすらこの世界には存在しないはずのモイパラシアの死体が物質的な質感をともなって描写されており、そこには「切断面からは黒インクが血液の如く流れ続けており」という比喩までご丁寧に添えられている。
 架空の人物の死を、その部位の様子を、ここまでのコストを割いてまで記述されねばならないただならなさを、この小説を読むまえのぼくは考えたこともなかった。一度考えさえすれば、すぐにその必要性が思い当たる。この小説はたしかにフィクションではあるけれど、紛れもないリアリズムを高い純度で書いているからそうなってしまう。金子薫という作者は、架空の人物の架空の死を架空の情景を重ね合わせるような比喩を使って架空のものとして書いたわけじゃなく、すべてが実際に起こったことであり、「実作」という絶対的なリアルにおいて、ぼくらが一般的に現実や虚構と呼ぶものを隔てる境界など実のところ存在などしていないのだと高らかに宣言したものだ。小説を書くという行為は、実のところ単純なメタ構造で語れるほど簡単なものじゃない。

 このようにはじまった『アルタッドに捧ぐ』は、本間と一心同体であり、かつ世界を知りうる感覚器だったはずのモイパラシアを喪失することで完全に破綻する。この小説はそれにより、風景らしい風景や、世界らしい世界を極めて視界の悪い場所から見ることを強いられる。風景と世界は砕け散ってしまった。さいわい、『アルタッドに捧ぐ』ではまだ本間が生きていて、本間がモイパラシアのいない生を、かれの忘れ形見であるトカゲのアルタッドやサボテンのアロポポルを育ててあらためて生きることで、風景と世界の残滓をつなぎなおす。ぼくたちの眼前に広がることばは、そうやって縫合されたものだ。モイパラシアが列車に轢かれたと同時に砕け散った世界のちいさな破片は永久に失われた。断片と断片の隙間のちいさな空白をなんとか埋めてくれるのは本間でも金子薫でもない。ことばそのものが持ちうる想像力だ。

ことばの想像力を使う作家

 言葉によって造られる迷宮のなか、光(ひかる) は当て所なく歩き続けていた。白紙に黒い字を綴るが如く、彼は黄色い絨毯を靴底で汚し、言葉に言葉を塗り重ねるようにして、言葉を使う言葉となって先へ先へ進んでいく。
──金子薫『壺中に天あり獣あり』

 2014年のデビュー以降、金子薫はこれまでに4作の中編小説を発表している。第2作『鳥打ちも夜更けには』はアメトーーク!でオアシズの光浦靖子に紹介され、第3作『双子は驢馬に跨がって』は第40回野間文芸新人賞の候補作に選出された。そして群像2018年11月号に最新作『壺中に天あり獣あり』を発表し、外から見れば概ね順調と言えるキャリアを歩んでいると言えるだろう。

 発表した4作品を読んでみると、金子薫は自らの文脈を持った実作を行なっていると言える。どの作品にも共通するだろうと思われることが2つある。そのひとつは「ことばそのものも想像力を信頼する実作スタイル」だ。
 想像力というものについて、ぼくは「ある人間のなかだけで独立した想像力」というものは実のところ存在しないのではないか、ということをよく考える。たしかにある人間に特有の想像力というものが存在するからこそ、小説だけでなくあらゆる創作行為や作品にオリジナリティの存在を認められるのは疑いようがないのだけれど、しかしそれは果たして「人間だけの想像力」によるものなのだろうか。
 記憶についても想像力にちかい性質を感じる。なぞなぞが解けないときにヒントが提示されて答えが思い浮かんだり、ある目的地を目指すなかで明確に場所を覚えていなくても「目印となる場所」に辿りついた瞬間、はっきりと道順を思い出せたりするとき、「非人間の想像力」を実感する。もちろん、非人間がぼくに作用して記憶や発想を具体化した(=記憶や想像力を増幅させた)とも考えられるし、また非人間がぼくに与える情報というのはあくまでも「ぼくがその非人間に対して抱いている想像により立ち上がったもの」にすぎないと考えることだってできる。ただ、ドアノブを見たらつい回してしまうように、特定の物質や形状が絶対的なイメージを人間に与えてしまうアフォーダンス的な現象とも考えられる。重要なのは、作用するという演算子のような働きだ。単語を無秩序に並べただけでも何らかの意味を見出してしまうように、ことばはただ紙面に存在するだけで何らかの情報やイメージを不可避的に人間に生じさせる。この効果をぼくはひとまず「ことばそのものがもつ想像力」と呼びたい。

 金子薫は上記のような「ことばそのものがもつ想像力」により小説内の風景や世界を切り開いていくタイプの作家だ。このことはこの記事の冒頭や、このセクションの最初に引用した部分を読んでもらえれば何となく伝わるんじゃないか、とおもう。こうした作家は金子薫のほか、大前粟生やケリー・リンクなども当てはまるだろう。
 金子薫はデビュー作『アルタッドに捧ぐ』はぼくらが住んでいる世界と同じ世界に軸足を置いているけれど、その作中作のモイパラシアの物語や、ほかの3つの発表作品において、ぼくらの世界の常識の多くを拒否している。「一般的な」リアリズム小説と呼ばれる類の小説では、ぼくらの常識としているあれこれを前提としながら、あらかじめ存在する世界の一部に凝縮させていくことで「リアリティ」が形成されるけれども、「ことばの想像力」により駆動される小説はそうではない(下図)。

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「一般的な」リアリズム小説では小説の外部(=描かれない部分)も具体的に存在しているけれども、「ことばの想像力」で風景や世界を切り開く作品では小説として描かれた世界の外部の存在が極めて希薄だ。実際に、金子薫作品では後付けにも見えるほどの唐突な世界観や事物の説明が頻出するが、これはストーリーテリングの拙さではなく、ことばが世界を外側に薄く広く押し広げようとする運動だ。この運動におもしろみを持てるか否かによって、「ことばの想像力」を駆動力とする作家の作品群の印象が随分と変わってくるだろう。

「現実と虚構」の関係性

 ところで、先ほどから何も説明することなく用いている「架空の港町」という名前についてであるが、これは、この港町がお伽話か何かのなかにある、という意味ではないことを言っておかねばなるまい。
 鳥打ちという職業が島ではいささか低く見られているのと同様に、早くに近代化を遂げた本土の住民が島の住民を軽んじてきた歴史があった。そのため本土に渡った際に、島の港からやって来た、などと言おうものなら、へえ、そんな町があるのかい、架空の港町じゃないだろうね、と嘲笑されるのが常だった。これは現在でも冗談の一つとして口にされることがあるが、六十年ほど前ならば今より遥かに強い侮蔑の念が込められていたという。
──金子薫『鳥打ちも夜更けには』

 金子薫の大きな特徴の2つ目として、「現実と虚構の関係性」に対して批評的なスタンスをとった実作をしていることが挙げられる。 もちろん、「現実と虚構」という言い方は便宜的なものでしかなく、実際には小説のなかには2つの空間があり、それぞれはそれぞれのリアリティを持って、それ自体の虚構性を認めてはいない。ただ、通常の意味での「現実らしさ」を前提としない寓意が強く現れた物語群は、どれも「自分たちは誰かの想像の産物なのではないか」という想いを抱いている。この不安が「現実対虚構」という批評性を顕在化させている。

 特に金子薫の作品をたどるにあたり『アルタッドに捧ぐ』と『鳥打ちも夜更けには』をまず比べてみると、両者は発想を逆転した物語のように読める。『アルタッドに捧ぐ』では現実のなかに虚構が具体性を持って登場し、アルタッドの生という虚構そのものが実在の真実を強めていくのに対し、『鳥打ちも夜更けには』では実在する港町であるという自覚がありながらも「架空の港町」と呼ばれることで、ことばの想像力を受けてその実在が希薄化する。この2作では、現実と虚構に認識次元での区別が行われておらず、混在している。そしてその濃淡にフォーカスされており、虚構が現実の色を濃くしようが、その逆に現実が虚構に侵食されようが、小説としての強度が変わらないということを示しているようである(下図)。

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 また、『双子は驢馬に跨がって』と『壺中に天あり獣あり』では、ある空間とその空間により想起された別の空間が作中に配置されている。しかし、この配置はメタ構造をとらず、同一平面上に有限の距離で隔てられたものとして扱われ、「現実のぼくら」の常識では次元を異にするはずの2つの空間が出会う可能性を示唆している。この2作の比較を行ったのが下図だ。

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『双子は驢馬に跨がって』は『ゴドーを待ちながら』に近い不条理を描いたのに対し、『壺中に天あり獣あり』では、2つの空間が結合されるにも関わらず、結合したところで「ありふれたただの1つの空間」にしかならず、カタルシスが発生しないという二重否定のような不条理が起こる。どちらの物語にしても「最初の状態に戻った」という共通点があり、これについてどう捉えるかを検討するのは現状ではむずかしい。

 金子薫の系譜として堂々巡りばかりが起こっていると読むならば、かれ自身の思考が停滞しているにも感じられ、もしかしたらこうした小説はこのような結末へと原理的に導かれているとしたら、相応の批評を要するものになる。これについては、より多くの作品が今後書かれ、さまざまな条件・状況によりつぶさに検討されるべきことだと思う。
 もちろん、こうしたものに「原理的な解答」なるものを求めるのは馬鹿げていると捉える人もいるだろう。小説に完成や完璧などない。これはたしかにそうだけれど、完成した思想や完璧な小説を目指さずして、小説を書く理由などぼくにはよくわからない。ひとりの実作者としていえば、書くことでしかわからない世界というものは確かにあって、その全貌はカフカの『城』そのものだ。そんなことはみんなわかっている。それでも小説家は小説を書くだろうし、これからも金子薫は小説を書き続けるだろう。何度も破綻し、そのほんとうの意味での完成がたとえ訪れることがなくても。