カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

2018.10 昨年刊行した電子書籍短篇集『コロニアルタイム(惑星と口笛ブックス)』第39回日本SF大賞にご推薦いただきました。

2018.10 短編小説『誘い笑い』を文学ムック『たべるのがおそいvol.6(書肆侃侃房)』に寄稿しました。

2018.8 掌編小説「青は藍より藍より青」第1回阿波しらさぎ文学賞を受賞しました。

こだま『ここは、おしまいの地』書評/ドラマティックの行方

何もない集落に生まれたことも、田舎者丸出しのなりふり構わない暮らしも、大人になってそれを隠しながら生きていたことも、教員を続けられなかったことも、病気も、経験してきた数々の恥ずかしい出来事すべてが書くことに繋がるのなら、それでいいじゃないか。そこに着地させたい。私の中の「おしまいの地」を否定せずに受け止めたい。そう思うようになった。

──こだま『ここは、おしまいの地』

 先月から文章を書く基礎体力の維持と、これまでのぼくの身辺で起きたことなどの整理を目的として、noteで「サッカー部がきらい。」というエッセイをほそぼそと書きはじめた。

note.mu

 文章じたいは仕事の兼ね合いで毎日それなりの量は書いているのだけれど、なんでもいいから書けばいいという話ではなく、ぼく自身が目指す文章像みたいなものがあるわけで、そことの距離を測るような思考を経たものを書かなければ、文章は書けなくなる。そういうことをかなりはっきりと自覚しはじめたのは会社員の頃だった。当時、小説を書きたいというおもいは強くあったけれど、それ以上に小説を書くことをやめたくないおもいのほうがそれに勝っていた。
 結婚し、就職し、ブラック企業ではないもののそれなりに疲弊する生活をしていて、もしいまじぶんが小説から離れてしまったらもう二度と戻ってこれないことを確信していた。なんとか小説に踏みとどまろうと毎朝4時に起き、家や会社近くのマクドナルドで書き続けた。しかしどれもこれも完成しなかった。会社を辞めてから新しい小説を書きはじめるとたった2週間で完成してしまったのだが、あのあっけなさはまさしく「憑き物が落ちた」というにぴったりだった。

 文章を書いてなんらかのかたちで発表するようになると、必然的にほかのひとの「文章論」を目にする機会が増えた(じぶんでもそのようなことを書いているわけだけど)。しかしその内容はといえば、意外にも「書き手それぞれにまったく異なっている」という印象はほとんどなくて、わりとありふれた一般論に収束しているように感じる。これはわかりやすく書こうとするとそうならざるを得ないのか、それとも独自の文章観を持ったひとほどそういうことを書きたがらないのか、その真相はわからない。おそらく、未来永劫わかることなどないだろう。
 こういうことをいいながらも、ぼくは他人の文章観の話をきくのがすきだ。啓発的なことをいったり、物語をつくったりする以上に、ぼくは文章表現そのものがすきで、書き手一人ひとりがどのようなことを考え、どのようなことを意図し、またどのようなことを意図せずして、眼前に文字列として広がる表現をおこなったのか、その発生や引き起こされる現象についてもっと知りたい。

経験とドラマティック 

 先日、町屋良平と尾崎世界観のトークイベントが神保町の書店で行われ、その様子がYouTubeでライブ配信されているのを見ていた。

youtu.be

 文章表現についての内容が大半を占めていて総じておもしろかったのだが、なかでも印象的だったのが「ドラマを持っている人間に対して引け目を感じるひとを主人公にしたい」という話だ。通常、小説はそのジャンルがなにであろうとエンターテイメントとして読まれるものなので、カタルシスやドラマティックな展開を求められる。
 しかし、小説を書くという話になると「読者を感動させる」というのは小説を「おもしろく」するための手段にはなりえても、小説そのものの目的にはならない。これは読者批判というわけでもなく、ドラマティックな物語への批判というわけでもなく、現実問題として小説が抱えているジレンマみたいなものだ。

 町屋良平は続けてこういうこともいった。「ドラマティックな人生を歩んできたひとがそれを物語するなんてことはほとんどない」

 たしかにぼくのまわりの作家の友人・知人を見たところ、ドラマティックな人生を歩んできたとおぼしきひとは見当たらない。みんな常識があって、謙虚で、つつましく生きている。そういうことをわざわざ喋ったり書いたりしないだけかもしれないが、みんな共通するのがじぶんが特別だなんてちっともおもっていないということだ。
 小説を書くためには「経験」が必要だ!ということがいまもむかしも変わらずありふれた一般論としてあふれているけれど、経験は「ドラマティック」と呼びうる特別を宿したものに限られないし、かといって大多数のひとが経験するだろう一般的な苦悩に限られるわけでもない。なにもしなかった10年があるとしてその「なにもしなかった10年」さえも経験になりうるし、まだこの身に訪れていない未来の10年さえも未経験という経験だ。経験とは、物理的に訪れたものだけじゃなく、考え方の問題でしかない。そんな気がする。まわりの作家の友人・知人は、そんな空白の経験を多く持っている。その空白に小説を書いているかもしれない。ドラマティックと呼ぶにたるだろう経験がその身に訪れたひとたちは、もしかしたらその空白を必要としていないのかもしれない。

知っていることを書く

 こうした考え方の対極にあるかもしれない、とおもったのがエッセイだ。今年の秋に、三浦しをんさん、玄月さん、吉村萬壱さんとトークイベントに出る機会に恵まれたのだが、なにかの流れで「まずは知っていることを書く」という話になった。
 三浦さんであれば小説の題材についての取材をかなり細かく行なっており、玄月さんは大阪を舞台とした土着的な小説を緻密に構築し、吉村さんは近年の小説では特に庶民的な生活感を多分に取り入れている。その話をきっかけに、じぶんの身辺についてかたちにしておこうと思い立った。そして、町屋良平と尾崎世界観の対談で出てきた「ドラマティック」というキーワードを受けて振り返ってみると、ぼくにはまるでそれがないと気づいた。ただ、それは気にならない。どちらかといえばぼくは平凡に慎ましく、ドラマティックとは無縁に生活したいし、もしそういうことがじぶんの身に訪れでもしたら、いまのような文章はもうかけないかもしれないとさえおもう。いま書けるものを、とりあえずもう少しはこの文脈で書いていたい。

空白に生起するドラマ

 こうした軸を持って、ぼくはこだま『ここは、おしまいの地』を読んでみようとおもった。代表作である私小説『夫のちんぽが入らない』は、まさに「ドラマティックな展開」がある物語で、「知っていることを書く」を徹底された作品だ。以前、ぼくは私小説の良い読者ではないと前置きしたうえで、この小説についての所感を述べた。

www.waka-macha.com

 ぼくは私小説の「経験」の側面が強調されることで、小説とは書き手の経験や人間性が過度に反映される表現だと捉えられるなら嫌だな、と感じていたわけだけれど、この小説は、言語表現の技巧がほとんど使われていないにも関わらず表現性が強い仕上がりになっていると感じ、おもしろく読んだ。彼女の文章には主張がない。起こった事象についての思考があり、経験した事実を文章に書き起こすことで再び思考するように書かれている。
 エッセイ集である『ここは、おしまいの地』は、エッセイと銘打たれながらも小説に近い質感を持っている。エッセイと小説のちがいというのは簡単に線引きできるものではなく、たとえば保坂和志なんかを見ていると、作者本人が書いた文章を小説といえば小説になるし、エッセイといえばエッセイになる。『ここは、おしまいの地』は作者の故郷である集落が軸に据えられることで、ひとつの物語としてのまとまりを見せている。
 ぼく自身もさいきん故郷のことをよく書く。ぼくは故郷の淡路島がむかしもいまもきらいだ。学びよりも人柄や人情が正義で、活発であることが小さなコミュニティでのヒエラルキー上位を約束されるような雰囲気がほんとうにいやで(だから「サッカー部がきらい」なのだ!)、高校生のときにもう二度と淡路島に住まなくてもいい人生がいいな、とさえおもった。それで京都に行った。しかし三十を超えると幸いまだ健全だけど両親が老い、実家が所持する土地などの問題もあって、田舎の長男たる宿命を現実のものとして考える必要がいよいよ生じてきた。故郷をどうにかして受け入れていかねばならないのだけれど、おそらくぼくに似た性格であろう息子を見ていると、「あの環境」で多感な時期を過ごさせたくないおもいがある。いまとむかしじゃ変わったことも多いけれど、ぼくの故郷の常識で子どもを育てることに大きな抵抗を感じずにはいられない。

 たとえばそういうことをぼくが書いたとして、それははたして文章としておもしろいものになるだろうか、とよく考え込んでしまう。実際に経験したことをかく、ということにはそういう不安がつきまとう。じぶん自身が経験したことにドラマティックがないこと百も承知だから。しかし、他人が経験した物語はなにを読んでも「ドラマティック」に映る。『ここは、おしまいの地』はほんとうに慎ましい個人の生活が描かれた文章だけれど、それでも読めばとても「ドラマティック」だ。ぼくの故郷よりもはるかに田舎で、荒れていて、奇人に類するだろう人物が登場するけれど、そういうことが問題じゃない。どこまでも一般人のはずの同級生・川本だって「ドラマティック」だ。「川本、またおまえか」では、川本という人物に対する空白が多いからこそ想像力の大きな運動が生じる。川本を思い出す行為のなかで川本の知らない物語が生起する。
 そういう実感を持つと「ドラマティック」という感覚をいま一度、考え直さねばならなくなる。「ドラマティック」という認識は、物語の怒涛の展開やエキセントリックな人物が引き起こすカタルシスによってのみもたらされる訳ではない。どれだけ心を動かされたかとか、そういうものにもよらない。文章を書くことで生じる空白に生起する物語を、想像力でつかむ行為にドラマティックが宿るのではないか──ということを考えた。ドラマはどこからでも地続きでたどり着ける。