カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

2018.10 昨年刊行した電子書籍短篇集『コロニアルタイム(惑星と口笛ブックス)』第39回日本SF大賞にご推薦いただきました。

2018.10 短編小説『誘い笑い』を文学ムック『たべるのがおそいvol.6(書肆侃侃房)』に寄稿しました。

2018.8 掌編小説「青は藍より藍より青」第1回阿波しらさぎ文学賞を受賞しました。

名倉編「異セカイ系」書評/「ひとりずもう」とそのやさしさ

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 さくらももこのエッセイ漫画「ひとりずもう」には彼女が漫画家になる前のことが描かれている。静岡で、家族にもなかば呆れられながら漫画家になる未来を信じて漫画を描き、「りぼん」に投稿していた高校の終わりから短大時代のエピソードがとても印象に残っている。
 創作という行為は苦しい。すくなくとも楽じゃないとぼくはおもう。しかしながらそれは決して創作の「たのしさ」に反するものじゃない。創作はたのしい。しかし、その創作がじぶんの手を離れたところに届く確信のなさが苦しい。
 出版社に投稿した原稿に返事があることはひとまず確率的にみてとても低く、だからこそ雑誌にじぶんの名前が載ったり、主催側から電話がかかってきたりするとうれしいどころの騒ぎではない。書き手の目の前で固く閉ざされた重たい扉が、鈍い軋りをあげながらゆっくりと開くその瞬間、創作は世界に接続される。
 ぼくは創作により肯定されるのは作者ではなくあくまでも作品である、と考えるタイプだけど、実作者としてはこの瞬間のインパクトはなにかしらのかたちで避けがたい影響をうけることになると確信はしている。すくなくとも、創作物はもう作者個人のものではなくなり、作品の愛しかたが変わる。メフィスト賞を受賞した名倉編のデビュー作『異セカイ系』を読んで、そんなことを考えた。

 

以下、名倉編『異セカイ系』のネタバレを含みます。

 

 「なろう系小説」に擬態した批評性の高い作品

『異セカイ系』はその名前が示すとおり、異世界転生系ライトノベル作品や、「セカイ系」という括りとして批評対象にあげる各種エンターテイメント作品をパロディ化した小説だ。

 いわゆる「なろう系」にあたる小説投稿サイトでランキング10位までのぼりつめた主人公が、自身が書いた小説世界と現実世界を自由に行き来できるようになるのだが、小説世界では自身が書いた物語の筋から外れるような行為は行えない。
 主人公は小説世界をリアルなものとして経験する過程でキャラクターへの愛を自覚し、キャラクターたちがかなしむようなイベントが発生するたびにその世界の創造者である作者=自身に対して憎しみの感情を持つ。サイトに投稿した作品を書き換えることによって、キャラクターたちの運命を修正することができるが、今度はランキング10位圏外に落ちて一定期間経つと小説世界そのものが消失してしまうことを知る。
 ランキング上位者もまた主人公と同じ状況にあり、主人公はかれらに接触を試み、すべての小説世界を守るための策を講じる。そうして投稿されたのが、『異セカイ系』と題された主人公がおかれた状況を暴露する内容の「私小説」であり、そこからもさらにメタにつぐメタの仕掛けが用意されている。

「小説を書く」ということを軸に据えてメタ構造が駆使されたこの小説は、不可避的に「小説を書くとはどういうことか」という思考を読者に投げかける。作品の内外により隔てられた登場人物と作者の関係性は恋愛により解体され、「きみ」と「ぼく」の関係として再構築される。次元を異にするふたつの世界は記述を軸としながらその位置関係を何度も書き換えながらハッピーエンドを希求する。

視界の悪い自意識の語りにより強調される創造性

『異セカイ系』の大きな特徴のひとつは、関西弁による自意識の語りだろう。この語りはライトノベル的な勢いとユーモアを引き継ぎながらも、極度に解像度の低い描写と大半を占める自意識と訴えにより、非常にチープな印象を受ける。ほとんどが感情により構成されたこの小説の視界は非常に悪い。しかし、この見通しの悪さにより、未だ書かれていない物語が強調され、この小説じたいがそこへと向かって思考を行なっている。

『異セカイ系』は世界のすべてが神たる作者により創造されるというスタンスをとっていて(余談だが、ぼく自身の実作の問題としてこのスタンスには同調できない)、語り手が見据えるのは空白のスペースだ。すでにあるものを見つけるのではなく、すでに起こってしまったできごとの真相さえも作者により創出されねばならない。そして作者や登場人物たちが空白について思考する場所もまた空白の領域であり、作品全体を覆う見通しの悪さが「自由時間」であり「自由意志」であるものがどのように存在しているのかを結果的に描出することに成功しているように思われた。
 ちなみにこの小説はおそらく「小説らしい」とおもわれるような文体や描写、説明を採用して書くほうがエンターテイメントとしてはるかに簡単だろう。しかし、そのような筆致を使うことにより損なわれるのは上述の創造性を強調する空白だけではないだろう。この小説はパロディやメタ構造を多用したあきらかに「批評意識が強い作品」ではあるけれども、物語の決着を創作論におそらく求めていない。
 評価が特に割れるだろう結末は、いわば作者の「ひとりずもう」にみえる。セカイ系における「きみ」と「ぼく」を、「きみたち」と「おれたち」へ複数化することで特定の誰かを選択しないハーレムエンドを実現し「異セカイ系」へとアップデートするとしても、その「きみたち」と「おれたち」が、「きみたち」であり「おれたち」でもありうる「わたし」に回収されうると読んだ場合、この小説の独善的な側面が強調されてしまうかもしれない。
 ぼくは「きみたち」や「おれたち」といった複数性において障害となっているのがメタ構造だとおもった。構造的に「作者」を中間項としてはさむことで、登場人物が作者という「わたし」が彼ら・彼女らの複数性を飲み込んでいる。小説に作者は存在するのか。いやもちろんそれは当然存在してしまうのだけれども、それでもきっと作者はじぶんの書く小説のことなんて、ほんとはなにもわかっちゃいないような気がする。『異セカイ系』という小説はやさしい。やさしすぎるともいえる。しかしその倫理観をちょっとぐらいは信用したいとおもわせるための物語の破綻に向かう一途さに大きな魅力をかんじた。