カプリスのかたちをしたアラベスク

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【最近のできごと】

2018.10 昨年刊行した電子書籍短篇集『コロニアルタイム(惑星と口笛ブックス)』第39回日本SF大賞にご推薦いただきました。

2018.10 短編小説『誘い笑い』を文学ムック『たべるのがおそいvol.6(書肆侃侃房)』に寄稿しました。

2018.8 掌編小説「青は藍より藍より青」第1回阿波しらさぎ文学賞を受賞しました。

SFの領分――SFアンソロジー『Genesis 一万年の午後』(東京創元社)書評

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 いろんな幸運にめぐまれた2018年で、ありがたくも拙作『コロニアルタイム』が日本SF大賞のエントリー作品としてご推薦いただいたのだけれど、実のところSFをこれまでたくさん読んできたわけじゃなかった。というか、そもその小説自体を20代前半まではほとんど読まずに過ごしてきていて、小説を読んだからこそ小説を書きはじめたという事実の一方で、小説をたくさん読むようになったのは小説を書きはじめてからだった。
 小説のことはまだぜんぜんよくわかっていないのだけれど、ひとつ掴んだ革新的なこととして、「小説を読まなければ小説を読めるようにはならない」というものがある。なんらかの前提知識がなければたのしめない小説ばかりではないのだけれど、小説という言語表現において「いかなる現象がテクストの表面で起こっているか」を知覚するためには量的にも質的にも高度な力量が求められる。「良い書き手」がいつも「小説の良き読者」であるわけではないが、「小説の良き読者」は「良い書き手」になる潜在能力を秘めていて、ぼくのような人生においても才能においても平凡さしかないような人間にとって、「小説」へ接近するためにはひたすらに小説を読むことが必要条件になる。小説を読み、小説を書くためには「小説という器官」を持ち、育てなければならない。

 ……というようなことをいうと、「お前の読書、ぜんぜんたのしくなさそうやな」などといわれるが、ぼくとしてはそれがただたのしい。ぼくにとっての小説のおもしろさというのは「そもそも小説という表現形式が存在し、一定の一般性をもって認知されている」ということであり、目の前の文章を「小説」として読めることや、書いた文章が「小説」として読まれることにある。なぜ「小説」と呼べるのか、「小説」とはなんなのか――それになんらかの解答が得られることはおそらくない。だけど、小説を読み、小説を書き続けるために、すくなくともぼくにとっては、この解答を暫定的であっても求め続けなければならないとおもう。ぼくにとって小説は自然科学に含まれ、科学の領分である現象だ。そこになんらかのメカニズムがある、という態度が小説を自生させる場として機能している。

 SFという小説ジャンルは、まさに「現象」をあつかう言語表現だとぼくは考えている。
 それは現代の自然科学事情では起こり得ない諸現象(まさに文字通りのサイエンス・フィクションだ)にとどまらず、諸現象が「SF」たる強度を付与するのがそれらに対する分析的まなざしだ。そのまなざしが向けられた諸現象は過度に虚構的情景が誇張された(なんらかの次元の)主観的現象として文章というスクリーン上に生起する。SFという概念の適用範囲の広さは、このまなざしの多様性により担保される。

 東京創元社より創刊されたSFアンソロジー『Genesis 一万年の午後』は、そうしたまなざしが交錯する「SFという場」だ。SFというひとつのまとまりのもとで収集された物語たちは、宇宙、人工知能、怪獣、ミステリ、ファンタジー、ホラー、現実といった雑多なトピックを包括しながら、SFの守備範囲を内から外へ向かって押し広げようとする力学によりその想像力の運動を加速させている。

 

Genesis 一万年の午後 (創元日本SFアンソロジー) (創元日本SFアンソロジー 1)

Genesis 一万年の午後 (創元日本SFアンソロジー) (創元日本SFアンソロジー 1)

 

 

 SFの多様性

 表題作である久永実木彦「一万年の午後」宮澤伊織「草原のサンタ・ムエルテ」はSFの王道をかんじさせる作品だ。共にグレッグ・イーガンを、前者は特に「シルトの梯子」を、後者は「ディアスポラ」を想起させ、人間ではないものの感覚をSFの文脈に沿って丁寧に構築されている。現在の地球から遠く離れた世界を描きながらもそこにあるのは「懐かしさ」だ。虚構性が強い世界観に対する「懐かしさ」が強調するのは新規性とは対極にあるものであり、悪くいえば「古臭さ」とも同義になりえてしまうが、あたらしさや古さが小説の良し悪しを決めるというわけでもない。このふたつの作品に対して感じられたのはSFという表現へのリスペクトであり、「いまSFを読んでいる」というよろこびが作品の屋台骨となっている。

 これと同様に「ベタであるが作者が愛してやまないもの」への敬意が強く現れた作品が秋永真琴「ブラッド・ナイト・ノワール」だ。マフィアとお姫様、吸血鬼、異能……といった「フェチズムの詰め合わせ」のようなファンタジー小説だが、そうしたギミックを押し込んだときに現れがちなエグみは不思議とない。物語の筋もファンタジー作品の序章の王道、つまり「ベタ中のベタ」だけれども、「お約束」だからこその安心感があり収録作品のなかでいちばんスラスラと読まされ、キャラクターの設定が凝っているため続編が気になるとさえ思わされた。シリーズ化することで魅力が映える小説だろう。ぶっちゃけ「これってSFなん?」という気持ちがなかったといえばうそになるが、こういうときは「これもSFだ」とおもうほうが、発想としてはより健康的になる。

 独特の想像力を駆使してゆがんだ世界を描いた倉田タカシ「生首」も、典型的なSF観ではSFとみなすことがむずかしいタイプの小説だ。生首が落ちるという感触だけにリアルがあり、それに付随する記憶や情景からリアリティが剥奪される感触が徹底されており、どんな小説かを説明するのは収録作品のうちもっともむずかしい。生首が落ちるという情景はホラーを想起せずにはいられないのだが、この小説にはごっそり恐怖の類の感情が排除されているようだ。波風の立たない感情の湖面にただぽつんと生首というグロテスクな情景が無機質に配置されたような絵画的作品で、短絡的な小説の分類の一切を受け付けない強さがある。

 宮内悠介「ホテル・アースポート」はそもそもミステリ作品として過去にミステリーズ!新人賞の最終候補となった小説らしく、SF的な想像力は物語の本筋ではなく背景にさりげなく配置されている。「宇宙に向かって伸びる全長10万キロメートルにおよぶエレベーター」が見れるホテルで発生した殺人事件とその解決の物語で、ミステリ作品であるがゆえに過度な言及はネタバレを招きかねないが、このSF的情景がきちんとミステリとしての着地にも重要な役割を果たし、小説としての完成度を1段底上げしている。やや淡泊な印象もぬぐえないが、使い方をまちがえれば悪目立ちしてしまう想像力をさりげなく扱った筆致が、作品のクレバーさを際立たせている。

 現実と近い距離に配置されていたのが2018年日本で書かれた日記的作品の堀晃「10月2日を過ぎても」と、いわゆる技術的失業を題材とした近未来SF・松崎有理「イヴの末裔たちの明日」だ。前者は大阪北部の地震や中国地方の豪雨など、2018年の日本を襲った災害と語り手の生活の距離が、街をめぐる歩調と同期するようなゆるやかさで叙述される。読みながらテジュ・コール「オープン・シティ」が頭に浮かんだが、この小説の足取りは歴史などの現実の暗く重い部分へ向かうわけではなく、SF的現象が直接描かれるわけでもない。目に映るものや語り手をとりまく情報が、語り手の思考と認識次第でいつでもSF的情景へと姿をかえうるのだという「可能性」が描かれている。
 後者はSFらしいSFの設定と発想で書かれた小説だが、抱えている問題の現在性が最も具体的かつ、認識的な距離においてもっとも現実にちかい。これも詳しい言及はネタバレになるため躊躇われるが「知的であること」が人間としての尊厳であるという幻想をあざやかに打ち砕く秀作で、皮肉なユーモアをまとった筆致がその説得力を高めている。

 収録作品のなかでもっとも好きだったのが、「居た場所」で芥川賞候補になった高山羽根子「ビースト・ストランディング」だ。フェノメナと呼ばれる「現象」によりとつぜん怪獣が出現するようになった未来の日本が舞台で、かつての野球場が「ビースト(怪獣)」を持ち上げる「リフティング」というスポーツが流行しているという世界を描いている。話題となった「オブジェクタム」でも感じたことだが、著者は小説世界のなかに独特のルールを構築する感覚に優れている。リアリズム的世界観に根差したオブジェクタムでは作品世界の「ルール」の記述は抑制を効かせた情景描写のなかに巧みに織り交ぜられていたが、SFという土俵において「説明」がもつテキストの破壊力を存分に使い、作品に速度と力強さを与えている。これまでどちらかといえば地味な作風だとおもっていたけれど、この作品はみずみずしさと華やかさをかねそろえていて、子どものような奔放さに満ちた想像力にすっかり魅せられた。

 

 

来年も

たくさん本を読みたいとおもいます。
本ブログをこれからもよろしくおねがいします!